【第2回】あぜりあSchool校長の旅行記 ♯クロアチア編 Part1



クロアチア旅行記 2025年10月



クロアチアへの旅は3回目になります。最初に訪れたのは2015年8月でちょうど10年前の事でした。2回目は2018年の夏で、そこから7年が経過しました。

セルビアとの内戦を経て、ユーゴスラビアから独立して30年、先回訪問した時はまだ戦争の痕跡が至る所に残っていましたが、今回はすっかり多くの人でにぎわう素敵な観光都市になっていました。

クロアチアとの縁は、私が千葉県佐倉市に1987年に引越してからになります。京成臼井駅近くの住宅地に引っ越したところ、3軒隣にカローラさんというクロアチア人の奥さんが住んでいました。私はこのご近所さんに英会話スクールを立ち上げる際、最初のイギリス人女性講師を紹介していただきました。カローラさんは【あぜりあSchool】の創設に協力してくださった方です。

カローラさんはドイツで日本人の商社マンのご主人と結婚をして、日本に住んで20年位経っていました。しかし、家庭内のご主人と娘さんとの共通語はドイツ語でしたので、彼女はおぼつかない日本語を話していました。私と話すとき、彼女は日本語、私は英語でした。なぜなら、彼女は映画を毎日英語で見ていたので、英語の方が理解出来たからです。でも、彼女は英語を話さないので、英語よりも日本語で話す方が得意でした。

しかし、業者との話や手続きなどの難しい日本語となると間違ってしまうことが度々でしたので、私が間に入って、調整をすることが多くありました。私は年下ですが、いつも彼女の姉のような立ち位置でした。

1991年にユーゴスラビア連邦からの分離を望むクロアチアとセルビアの内戦が勃発しました。カローラさんは国の為、何か力になれないか考え、自宅でチャリティーパーティーを企画しました。私は毎晩のように子供達が寝静まると、カローラと作戦会議を行い、私は主に広報担当として、英字新聞や地域のコミュニティー紙、ケーブルテレビなどにお願いし、取材をして頂き、チャリティーパーティーの参加者を募集しました。

パーティーには初代クロアチア日本大使夫妻も来てくださり、毎回何十人もの参加者がありました。クロアチア大使館を通し、子供病院に60万円以上を寄付することができました。その他に日用品を何回もクロアチアに送りました。確か、輸送はルフトハンザ航空が協力してくださったと思います。

その内戦も1995年に終わり、カローラさんはその数年後に日本人の夫を若くしてすい臓病で亡くし、クロアチアに帰っていきました。カローラさんが杖を突かないで、ディスコ行ける内に、私がクロアチアを訪れるいう約束を20年後に果たしたのが、2015年でした。

今回2025年10月現在、日本からのクロアチアへの直行便はなく、ヨーロッパのどこかの都市を経由をする必要があったので、今回はストックホルムから約3時間でクロアチアのスプリットにやってきました。空港はカローラさんの友人のアレンさんが自家用車で迎えにきてくれていました。

ところが、アレンさんは全く英語話せません。息子の嫁のイバさんがWhatsAPPというSNSアプリを通して、私達とコミュニケーション自宅からとってくれました。1時間半程の道中言葉が通じないのは、少し不便でした。改めて、言葉の大切さを実感しました。でも、ガソリン代に少しプラスした程度で、忙しい中時間を取ってくださったやさしさに感謝!感謝!

先回はカローラさんも空港まで迎えに来てくれたのに、今回はいなかったので、少し驚きました。今回、87歳になり、車に揺られるだけでも、疲れるという事をあとで聞かされました。元々、高齢なのに私と友人を招いてくれて、ビックリやら嬉しいやらでした。

こうして、遠い国で、インターネットが自宅に無く、コミュニケーションがうまくいかない友人の自宅に、ハラハラドキドキしながら、どうにか無事にたどり着きました。

Part2に続く